弘前ねぷたフォーラム 2023 秋

お知らせ

10月27日(金)、観光館で開催された「弘前ねぷたフォーラム 秋」に役員数名で参加してきました。フォーラムの内容は以下でした。
1.「ねぷた和尚」上映会
 昭和50年くらいの作品でしょうか?ねぷた和尚こと 故 長谷川達温さんのねぷた絵制作風景や当時の運行の様子の映像でした。音声の状態が悪く聞き取れない部分もありましたが、改めて達温さんの絵を見ると現在でも迫力満点でした。

2.「ねぷた今昔」講演
 弘前マイスター 高橋勝良さんによる弘前ねぷたの歴史等をユーモラスに語っておられました。要約すると…
【運行形態と囃子】
・ねぷたは本来地域内での運行が基本。時期もバラバラであった。
 このことが偶然に他地域のねぷたとのバッティングに繋がり争いが絶えなかった。
 警察がことことを勘案し、時期・経路設定し開催したのが現在の合同運行の基礎であった。
・町内運行時は町内を隅々まで一筆書きのように練り歩いた。
 結果お囃子は、基本的に運行と休みしかなく、戻りの囃子は決まっていなかった。
 昭和40年代にNHKの朝ドラのロケが弘前であり、これを機に共通をものをつくった。
・それぞれのねぷた本体の形態により、囃子のスピードには違いがあった。
 担ぎねぷたは運行スピード早くそれに比べ人形等大型のねぷたは遅かった。
 それぞれのスピードに合わせ囃子のスピードも変わっていたとのこと。
【ねぷた造形と絵】
・昔は本体鏡絵部分にも骨組みがVのおろ字や格子状に入っていた。
 見栄えより、ロウソクによる灯りため、紙が破れて火事になるのを防ぐため。
 その後番線やパラフィン紙による補強、障子紙の使用により現在のスタイルに。
・本来見送り絵とは後ろ全体をさす。現在の見送り絵部分は扉絵と呼ばれる。
 以前は本体内部へのアクセスとして、文字通りそこが扉になっていたため。
・現在美人画が主流になっている扉絵も従来は武者絵だった。
 竹森節堂は最後の最後までこれにこだわったが、ねぷた保存基準なるものができ説得された。
・扉絵の覆輪には雲が描かれその落とし込み部分には蔦が描かれている。
 以前は覆輪しかなかったが新寺町のねぷたが初めて落とし込み部分をつくった。
 落とし込み部分の絵はいろいろなものがあったが、扉絵の美人画に合わせて蔦が描かれる。
 保存基準には蔦描くことなっているが、女性以外を描いたら蔦はおかしいらしい…
・昔は上乗りの仕事はあまり重要でなかったため、上部の開口部は狭く、肩の部分が広かった。
 上部から風が入りロウソクの火が消えるを防ぐため。
 肩に書く町内名や団体名が大事であった。現在主流の肩下の雲はなくその部分まで文字が書かれていた。
・昔の鏡絵には上部や端の部分に白の余白が多い。
 これはロウソクの使用により、火事を防ぐため本体端部分にはロウソクを設置出来なかったため。
 つまり端が暗かったため、そこまで絵を書いても映えなかったため。
【終戦後変わったところ】
・本体は4輪から2輪また4輪へと移行している。
 現在の土手町コースの解散地点にサスマタでも上がらない極太のケーブルあった。
 大型化に伴い2輪に変更しそこをかわしていたが、動けなくなるねぷた多かった。
 2輪にするとボコボコの舗装路では運行に支障が出る場合も多かった。
 2輪は傾ける事による発電機の燃料漏れからのトラブル少なからずあった。
 警察からの指導もあり、本体に折をつけ、4輪に戻す団体が多くなった。
・折の弊害として折の部分で絵が切れたり、上乗り人数の増加により肩が狭くなった。
 肩が下方へ狭くなったことにより内部が見えやすくなり格好が悪い。

3.懇親会
 他団体の方々といろいろと意見交換をさせていただきました。

ねぷた今昔の講演はとても有意義なものでした。また今後の機会を楽しみにしております。

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